鯨

鯨文化と産業

鯨を捕るだけではなく、私たち日本人は日常の暮らしのなかで最も深く鯨と関わってきた民族でもあります。そのなかからさまざまな鯨文化が生まれて来ました。
室戸市内のレストランでは、鯨料理をお楽しみいただけます。

日本人と食文化

日本では縄文時代からすでにイルカやクジラが食べ物として利用されていました。江戸時代になると網取り式捕鯨の発達によって、捕獲されたクジラは塩漬けされたのちに各地に運ばれ、鯨の食文化はさらに広まっていくことになります。

もちろん、土佐でも日常的に鯨肉や皮が食べられていました。特に捕鯨の盛んな地域では、さまざまな鯨の食べ方が伝えられています。
また日常だけではなく、特別な日に鯨を食べるという習慣もありました。大晦日や正月に大きなものを食べると良いと言って、鯨を縁起物として食べていたのです。
こういった鯨の食文化も、商業捕鯨の禁止とともに失われようとしています。

伝統文化のなかに生きる鯨

鯨を食べるだけではなく、その鯨との係わりあいのなかから、日本独特のさまざまな文化が生まれてきました。なかでもヒゲクジラのひげは、伝統的な日本の芸能と深く結びついています。弾力性に富んだ鯨のひげは、人形浄瑠璃の人形やからくり人形の首やまゆ、手の関節の動きを支える部分になくてはならないものとされてきました。
歌舞伎役者の衣装の袖口の円形も鯨のひげで整えるのが極上とされていたようです。また、競馬の騎手のムチ、釣りざおの先などにも鯨のひげが用いられていました。そのほか、マッコウクジラの歯はボタンやブローチ、印鑑、パイプなどの細工物に利用されるなど、鯨はあますことなく活用されてきたのです。

鯨油と産業

日本では縄文時代からすでにイルカやクジラが食べ物として利用されていました。江戸時代になると網取り式捕鯨の発達によって、捕獲されたクジラは塩漬けされたのちに各地に運ばれ、鯨の食文化はさらに広まっていくことになります。

鯨文化と産業

鯨はさまざまな産業や工業も育んできました。その原動力となったのが鯨油です。鯨油は鯨の脂肪を加熱して取り出したもので、外国では石油が発掘されるまで、灯りをともす大事なエネルギー源でした。
日本でも灯りに利用するだけでなく、稲作の害虫駆除に用いたり、油をしぼったあとのカスは田畑や果樹栽培用の肥料に使うなど農業用としても利用されてきました。戦後になると鯨油からロウソクや石けん、グリセリン、ダイナマイトが作られるようになり、マッコウクジラの脳油はクレヨンやクリーム、口紅など、さまざまな工業製品に用いられてきました。最近では、人工衛星の部品のなかにこの脳油が使われているそうです。

鯨の道

北へ南へと回遊する鯨たちの通り道

鯨は日本列島を北から南へ、そして南から北へと決まったコースを回遊しています。そのルートが「鯨の道」といわれるもので、鯨の習性です、室戸岬を足摺岬を結ぶ土佐湾内にも、春に極海域をめざして北上していく鯨たちの「春の道」、秋から冬にかけて暖かい海へと南下する「冬の道」が通っています。かつて鯨が多かった時代、室戸岬付近は北から南から二手に分かれてやってくる鯨たちの通り道でもありました。このあたりは海が深く、格好のエサ場があり、いまもマッコウクジラたちの回遊コースです。

鯨の郷室戸(いさのごうむろと)

高知県は、まるで太平洋を抱えるのかのように両手を広げた格好をしています。その右手を足摺岬にたとえると、左手が室戸岬。そのふところが土佐湾ということになります。鯨たちはこの土佐湾を横切って太平洋を北へ南へと回遊しているというわけで、土佐の民謡「よさこい節」に歌われる“おらんくの池”とはこの湾のことです。
室戸市は、土佐捕鯨発祥の地として古くから栄えてきた鯨のまちで、全国にその名を知られていました。この室戸で捕鯨が始まったのは17世紀、江戸時代初期のことで、以来、土佐での捕鯨の歴史は1936年(昭和11年)まで約300年間にわたって続けられました。
その後も、捕鯨基地として室津港から世界の海へと捕鯨船が勇壮に船出していましたが、1987年、国際捕鯨協定によって世界的に中止となり、室戸から捕鯨船の姿も消えました。そして今、室戸はホエールウォッチングのまちとして、新しい一歩を踏み出そうとしています。

鯨組(くじらぐみ)

「鯨組」は、当時の捕鯨会社で、その組織体を鯨組と称していました。いわゆる捕鯨に関わる漁業集団です。船の乗組員を中心とする漁労部門、陸から鯨を見張る山見番、魚切り職人などの解体部門、造船、網造り、樽職、鍛冶職などの部門を持ち、300人以上の社員を抱える大企業でもありました。この鯨組は当初、土佐藩の水軍(海軍)の役目を担っていたといわれていますが、網捕り式捕鯨法の時代には「津呂組」、「浮津組」が結成され、時代の変化により経営形態は藩営、県営、民営と移ってきますが、鯨組の組織形態は変わらず、それぞれの経営者からさまざまなかたちで給与が支給されるなど、鯨組は大事な地場産業として、藩や県から保護、優遇されていました。